「多世界が存在する」と「現在の世界に収束している」というのは表現の違いにすぎないのではないか。
例えば、「過去が存在している」というのと「過去はすでにない」というのは「過去」についての表現の違いでしかないというのは理解できるだろう。どちらにしろ過去に戻って何かできるわけではない。
「多世界が存在する」と言っても違う世界に行って何かできるわけではない。
どんなに科学が進んでも存在するすべてを知ることはなく、人間に「理解できた」と感じられるごく一部分だけを感じているにすぎない。
「多世界が存在する」という表現によって理解できたと感じるならその表現を使えばいい。これは考える主体が AI になったところで変わらないだろう。